なぜ山線は海岸部ではなく、内陸部を通るのだろうか?『北海道の電信電話史』(1964)に以下のような記述があった。
この鉄道ははじめ日本海の沿岸集落を縫って布設する予定だったが、「波打ちぎわを、黒煙をはき、ごう音を発して汽車が走ったのでは、にしんがいっそう寄りつかなくなる」というにしん場の親方連の反対があったため、沿岸を避けて内陸を通すことになったのである。
鉄道の開通とともに、停車場には電信取扱所が設けられた。(61−62ページ)
本道で特設電話のトップを切ったのは岩内で、ここは明治20年(1887)ころから40年にかけて、にしん漁で栄え、33年には福山(松前)とともに早くも1級町村制が施行された。(96ページ)
寿都と岩内の間の雷電峠には、明治14年に電信線(電報用の通信線)が通され、少なくとも明治24年までは存在したいたらしい(30ページ)。
ところが、明治末の市外電話ルート(105ページ)を見ると、寿都と岩内の間にはルートがない。岩内は小樽経由で札幌と繋がり、さらに室蘭経由で海底ケーブルにより函館とつながっている。寿都は函館とつながっているが、寿都から北上した電話ルートは歌棄を経由し美谷(現在の寿都町歌棄町美谷)で終わっている。したがって、この頃、寿都と岩内の間の雷電峠を越す電話線はなかったのだと思われる。雷電峠の電信線も廃止されたのだろうか?
山線の長万部ー小樽間が全線開通したのは、1904(明治37)年のことである。
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